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学校で教える国語は、9割9分「文字」の世界です。最近は聴き取りや発表といった授業の割合も増えてきてはいるようですが、それでも国語で学ぶのは「書きことば」であり、「話しことば」はほとんど学習しません。

 

 

しかし、同じことばでも「書きことば」(むずかしくいえば「文字言語」)と「話しことば」(むずかしくいえば「音声言語」)は大きく異なります。

 

 

たとえば、話しことばの典型である日常会話では、私たちは説明しなくてよいことはできるだけ省略(というよりそもそも言う必要がないのでそんな発想はしませんが)して話します。

 

 

トンカツを食べているとき、兄の方がソースの器に目をやって弟に)

「それ、とって!」、(弟はちらとソースの器に目を走らせて)

「自分でとれよ!」 、「遠いんだよ!」、「ちょっと腰浮かせたら届くだろ!」、

「おまえがちょっと前へおくったら届くんだよ!」、

「不精するからデブなんだよ!」、「なに!」(席を立つ。その拍子にテーブルの

上のソースの器がひっくり返る。それを見て父親が)、「何やってるんだ!

 

 

話しことばには「場」があります。だから、上の文の(  )の中はなくても、「  」の中だけでそこにいる人たちにはことばの意味が分かります。

 

しかし、もし「  」の中のことばだけを文字にして、作文を書いたとしたらどうで しょう。

 

「それ、とって!」「自分でとれよ!」「遠いんだよ!」「ちょっと腰浮かせたらたら

届くだろ!」・・・「何やってるんだ!」 この程度ならある程度状況は想像できる

かもしれませんが、誰がどのことばをしゃべったかは分かりません。

 

ここまで極端ではありませんが、国語が得意でない子どもの作文にはこのように

「場」の説明のない文章がしばしば出てきます。

 

その子自身は、その「場」を思い浮かべて書いていますから、それで読み手にも

伝わると思うのでしょう。反対に書きことばを読むと、「場」の説明が読みとれなく

て状況がつかめないということもあります。

 

 

太郎は新聞配達のアルバイトをしています。三月の早朝のことです。

 外はまだ暗く、春とはいえまだ風も冷たくて、太郎はときどき息を

はきかけては手を温めながら、あちらこちらの家へ新聞を配っていました。

 

 太郎は陸上部に入っています。それで陸上の練習になるからと、自転車に

乗らず自分の足で新聞を配っていました。

 

 すると、向こうの方からタッタッタという足音が聞こえてきました。

  足音はだんだん近づいてきて太郎の横を走りすぎました。

 

  「あっ! この音・・・・・・」と小さく太郎はつぶやきました。

  学校へ行くと、太郎と同じ陸上部の次郎が席にすわって本を読んでいます。

 

  太郎は次郎のそばに行って言いました。

  「次郎、おまえ朝早くから練習してたんだな。」

 

 

 仮にこんな文章があったとして、「太郎はなぜ走っていたのが次郎と分かったのです  か?」などという設問があったとき、「場」が読めない子どもの中には 「朝、出会ったから。」とか、「すれ違ったときに顔を見たから。」とか書く子がいます。

 

「外はまだ暗く」の部分や足音の描写は読み飛ばしているか、読んでもピンときません。書きことばの世界に慣れていない子どもは「場の描写」からその場の「情景」を思い浮かべることが苦手です。

 

あるいはこういう子もいます。話しことばの世界は、必要な骨組みのことばのやりとりで済みます。ところが、書きことばの世界は、骨組みにいろいろと肉付けがされています。これに慣れていない子どもは、この肉付けと骨組みの違いが分からないのです。

 

 

 いずれにせよ、日常会話ではよくことばの内容が理解できる子どもが、文章を読んでも内容が分からないとなると、国語という教科の理解は難しくなります。

 そう聞くと、お母様方は、早くから文字を教えたり、文章を読ませたりして、書きことばの世界になじませたいとお考えになるかもしれません。

 

 

 

しかし、私はあまり急がない方がよいという意見です。

 

 

 

そもそも文章を読むというのは、それほど簡単なことではありません。私たち大人はある程度書きことばに慣れていますから、文字さえ読めればある程度文章は理解できると考えがちです。

 

しかし、話しことばに比べて書きことばは非常に情報量が少ないのです。話しことばでは、さきほど述べたようにそもそもことばが発せられる前提として「場」がありますから、状況によってある程度内容の見当がつきます。

 

それに加えて、ことばとことばの間や、音の高低、抑揚、表情、身振り手振りなど内容を伝えるためにさまざまな補足ができます。

 

低学年の子どもだと「おまえのこのテストの点数にはお母さん心底落胆した。」などということばは分からないでしょうが、母親ががっかりした表情をしていたら、言いたいことはだいたい分かります。

 

ところが、書きことばでは、文字以外の一切の情報はありません。文章を読むということは文字だけの情報から内容を理解する高度な作業なのだということを私たち大人は再認識しておく必要があるでしょう。

 

 

 

だから、まずご家庭ですべきことは、話しことばの世界からだんだんと書きことばの世界に子どもをいざなっていくことだと私は考えます。

 

 

 

この段階をとばして文字を教えようとした場合、うまく書きことばの世界になじむ子どももいるかもしれませんが、かえって混乱してしまう子どももいると思いますし、仮に表面上は順調に文字を身につけたようでも、それは音と文字が一致しているだけで、意味のあることばとして、さらにはある内容を表す文として理解しないまま文字だけを先行して身につけてしまうこともあるだろうと思います。

 

そうして身につけた書きことばは、本当に物を考え、理解するためのことばとはなり得ないだろうと私は考えています。

 

 

 まずは、身のまわりの物や自然の風物や行動などを通して、耳からことばを伝えていきましょう。

 

本で見る文字よりも、実際の体験の中で得たことばはより着実に子どもの心に刻みこまれていくでしょう。

 

「りんご」というカードでおぼえることばは、りんごの絵と「り・ん・ご」という文字だけですが、実物を食べておぼえることばは、色や形とともに味とにおい、さらにはそれを食べたときの幸せな気分も一体となって身につくことばです。

 

就学前は、「りんご」が書けなくても、「りんご」の音から色や形、味やにおい、それを食べた時の場面が頭に思い浮かべられればそれで充分です。

 

次はお話がよいでしょう。お話は耳から伝わるものではあっても、ことば自体は大部分書きことばです。「むか~し、むか~し、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」なんて  日常会話はありません。

 

 

別に本にあるお話でなくても、お母さんやお父さん自身の体験談でもかまいません。それも「場」の説明なしにはうまく伝えることは出来ませんから、子どもはお話を聴きながら「場」を思い浮かべる訓練をしていくことになります。

 

 

 

 次は読み聞かせです。これはもう完全に書きことばの世界です。

 

 

読み聞かせによって書きことばの世界になじんでおけば、自分で文字を読むようになっても理解しやすいだろうと思います。

 

 

最初は「場」の理解を補う絵のある絵本などの読み聞かせがよいかもしれません。ただ杓子定規に、お話→絵本→絵のない本とすすむ必要はなくて、時と場合に応じてこれらに触れていけるようにすれば、書きことばへのハードルを低くしていくことができると思います。

 

念のため、テレビは書きことばの世界ではなくて大部分話しことばの世界です。

 

映像が「場」を説明してくれていますから。中には『まんが日本むかし話』のように映像を見せながら朗読をして「場」をことばで伝えているものもありますが、アニメ番組などでもこのパターンは少なくて、ほとんどはことばではなくて映像が主です。

 

 

 今述べたようなことは、就学前(小学校にあがる前)の子どもたちには特に必要な段階かと思いますが、「うちの子はもう小学校高学年だから、読み聞かせしようにも聴こうとしない」というご家庭もあるかと思います。

 

たしかに年齢があがればあがるほど機会は減ってくると思いますが、それでもお母さんやお父さんが新聞を読むときに意識的に声を出して読むとか、その日の出来事や昔の体験談を話すとかすれば、少しでも書きことばに近い形で、子どもの耳からことばを入れていくことが可能です。

 

小さなお子さんや国語の苦手なお子さんには、まずは書きことばのハードルを低くすることを考えられてはいかがでしょうか。

 国語塾いはら教室主宰 井原 幸彦

  

 【公式】国語塾いはら教室ウェブサイト

 

 

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第二回目のコラムをお届けいたします。さて、今回は鉛筆の持ち方についての考えを書きますが、その前に先日観た大河ドラマで印象に残る台詞がありましたので、そのことから書かせていただきます。

 

  今放映されているNHKの『八重の桜』の中で、こんな台詞がありました。

 

「賢いということは、心こまやかということ。」

 

私は、これを観て「なるほど」と思いました。たしかに賢さとはある種のこまやかさを備えていることだと思います。ただ、一口に賢さといっても、持って生まれた賢さもあれば訓練によって身につく賢さもあると私は考えます。

 

前回、勉強のよく出来る子どもの特徴として、返事ができる・あいさつができる・椅子、靴をそろえられるの三つをご紹介しましたが、これをいつもしようと思えばいつも自分の身のまわりのことに気を配っていなければなりません。

 

これも「こまやか」ということでしょう。加えていうならば、靴をそろえるといっても、向きを変えるだけでなく、あがり框(かまち)に対して垂直にきちんと置けているということ、それを意識できるということがとても大切だと私は思います。

 

そういう真っすぐだとか少し斜めになっているとかいう感覚が、文字、特に漢字を書くときの一画一画に反映されます。

 

この横線をどのくらいの長さで書くのか、斜め線の角度はどれくらいか、そういうことを意識できないと整った字形にならないし、なかなか漢字も覚えられません。

 

漢字のあまり書けない子どもたちを観ていると、

 

おおむね①筆順がちがう

②一画一画の長さや角度が不適切で、全体的にバランスが悪い

③細かい形の違いや抜けが多い、などの傾向があります。

 

そもそも筆順などは、おおむねその順番に書いたほうが書きやすく、また覚えやすく定められているのに、どうしてわざわざ違う順で書こうとするのか不思議に思うのですが、小学校二、三年生ぐらいの漢字で停滞している子どもは、たいてい筆順が身についていません。

 

こうしたことに意識が向くというのがこまやかということですし、日常の生活の中でこまやかなことを意識するよう促していくことで、個人差はあるけれども学習のときにこまやかな点が意識できるようになるのではないかというのが私の考えです。

 

「伸び伸び育てる」とうことばは魅力的ですが、「賢くて伸び伸び」と「賢くなくて粗雑」の違いを私たちは意識すべきではないでしょうか。

 

 

 さて、ずいぶん遠回りしましたが、鉛筆の持ち方です。

 

 

私が、鉛筆の持ち方のよくない子どもたちが意外と多いことに気づいたのは、塾を始めて間もなくです。

 

それで気になって当時非常勤講師として勤めていた私立中学校の二、三のクラスで生徒たちの鉛筆の持ち方を観てみましたが、少なく見積もってクラスの3割前後が正しい持ち方になっていませんでした。

 

 

なぜこんなに持ち方が悪い生徒たちが多いのか、

 

 

最初私はシャープペンシルだと正しい持ち方がしにくいのか、指の力が弱い子どもが力の入りやすいように我流の持ち方をしているのだろうと考えました。

 

当時私の教室ではまだ低学年のお子さんをあずかっておらず低学年のお子さんを観ていませんでしたので、低学年の頃は正しい持ち方をしていても学年があがるにつれてだんだん我流になって崩れてくるのだと思ったのです。

 

ところが低学年のお子さんをあずかるようになってみると、もうすでに誤った鉛筆の持ち方をしている子どもがいます。

 

しかも、それでそこそこ整った字が書けている子もいます。

 

そこそこ整っていれば問題ないではないかとお考えの方もいらっしゃるかもしれません。

 

また、私が非常勤講師をしていた私立中学は中学入試に合格した子どもたちがきているわけですから、鉛筆の持ち方が悪くても学力があればそれでいいのではないかという見方もあるかもしれません。

 

 

しかし、私は鉛筆の持ち方にこだわります。

 

 

 その理由の一つ目は、鉛筆や筆の持ち方が悪いと字が書きにくいからです。

 

 

文字には「とめ」「はね」「はらい」などといわれる終筆の形がありますが、鉛筆の持ち方が悪いとしづらいものです。

 

書きづらいというのは子どもにとって大きなストレスになり、書きづらいから練習をしない、練習をしないから身につかないという悪循環に陥る子どももいるのではないかと私は感じています。

 

また逆に一度誤った鉛筆の持ち方を身につけてしまうと、今度は正しい持ち方に直させたときのストレスが大きく、これはこれで、正しい持ち方にさせようとすると書くことを嫌がるという悪循環をおこします。

 

私の教室で見たところ、小学校1年生でもすでに誤った持ち方が定着してしまっているとみられるお子さんがいます。

 

 

これはどうしたことでしょうか?

 

 

小学校にあがる前にすでにご家庭あるいは保育所、幼稚園などで文字を書く機会があり、いい加減な持ち方で文字を書くことが身についてしまったのでしょうか?

 

しかし一度ついてしまった癖というのはなかなか直りにくいものなので、文字を書くことを教えるなら子どもが嫌がっても始めから正しい鉛筆の持ち方をさせたほうがよいというのが私の考えです。

 

鉛筆を持つときの筋肉の使い方は箸を持つときの筋肉の使い方と似ているともいいます。

 

あるいは家庭で箸をつかう機会も減ってきているのかもしれないとも思いますが、これは私が鉛筆の持ち方にこだわる二つ目の理由とも関係します。

 

 

 理由の二つ目は、鉛筆の持ち方が悪いと所作が美しく見えないからです。

 

 

作家の清水義範氏は著書『行儀よくしろ』(ちくま新書)の中で、「教育にはその国の文化をいかに継承していくかという視点も必要であり、文化を継承した人びとの所作は美しい」という意味のことを書いておられます。

 

私が子どもたちと接してきた実感からいうと、国語力の高いお子さんは、古くからの習慣や季節の行事などにもくわしい子が多いようです。

 

文化の継承は国語力を高めるためにも必要だと思います。箸の持ち方や鉛筆の持ち方も文化です。

 

 

こういうことをおろそかにしないというご家庭の姿勢が、子どもたちに日本の

文化を伝え、文化とともに子どもたちの学力も育むのではないでしょうか。

 

 とはいえ、鉛筆の正しい持ち方を定着させるには時間がかかります。

 

なかなか身につかないお子さんには、出来ないからといって叱ったりせず、三角鉛筆やペングリップなど正しい持ち方を身につけるための道具も使いながらくり返しくり返し正しい持ち方を促していく、その根気が必要かと思います。

 

けれども、学校まかせではなく、ご家庭でもこうした取り組みをすることは子どもたちの学力の土台をつくる大切な家庭教育ではないかと私は考えます。

 

  国語塾いはら教室主宰 井原 幸彦

  

 【公式】国語塾いはら教室ウェブサイト

 

 

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   はじめに自己紹介をいたします。私は、AIEL言語・国際教育協会の構成員であり、岩出市で国語だけを指導する塾を主宰している井原 幸彦(いはら ゆきひこ)という者です。

このたび国語力やコミュニケーション能力をつけるうえで、ご家庭でできることをコラムの形で紹介させていただくことになりました。国語だけを指導する塾とはどのようなものかイメージしにくい方もいらっしゃるかもしれません。

そういう方は一度私の教室のウェブページをご覧いただきたく存じます。「和歌山 国語塾」「和歌山 いはら教室」などと検索をかけていただくと出てくると思います。

このコラムに書くことは、私が教室で生徒たちと接しながら感じていることや共に学んでいること、さまざまな先生方から教わったり本を読んだりしながら学んだこと、考えていることなどです。国語に興味をおもちの方やお子さんの国語力を高めたいと考えておられる方のご参考になれば幸いに存じます。

では、コラムを始めることにいたしましょう。 



 

さっそくですが、なんと第一回目から、国語力さらにはコミュニケーション力を高めるとっておきの方法をご紹介いたします。それは、



「はい!」


ということです。名前を呼ばれたとき、話しかけられたとき、しっかりとした声で「はい!」と返事をする。これがコミュニケーションの基本中の基本であり、最も重要な要素です。


 学力の高い子どもには3つの特徴があるといいます。



1.返事ができる

2.あいさつができる

3.椅子・靴をそろえられる



 この3つのできる子どもはほぼ間違いなく学力が高いのだそうです。(『どんな子だって「勉強ができる子」になれる!』向山洋一著 PHP出版)


私の教室でもやはりこの3つがしっかりできるお子さんは(100%とは申しませんが)学力が高いと感じます。


しかし、これをいつでもどこでも3つともできる人は、子どものみならず大人でも少ないのです。例えば、病院の待合室、順番が回ってきて名前を呼ばれたときにしっかりした声で「はい!」と返事している人はどれくらいいますか? と、考えてみれば、私も含めて大人だって常にこれができているとは言い難いでしょう。


こんな基本的なこともできないし、子どもに教えられてもいないのに、国語教育だ、外国語教育だ、と先走ったことを言っているからコミュニケーション能力どころか基本的学力も育たないのではなかろうか・・・? と、国語を教える身でありながら私は思ったりします。




 

 なぜ、これがコミュニケーションの基本であるのか・・・私はこう考えます。


コミュニケーションとは簡単に言えば、意志の疎通をはかることです。意志の疎通をはかるために必要なものはなにか? ことば? 文字? ジェスチャー? もちろんテレパシーなんてものがない限りこれらは必要です。


でも、その前になくてはならないもの・・・・・・。それは『他者』の存在です。


相手がいないのに、コミュニケーションなど成立のしようがありません。だとすると、今、相手が自分に対して話しかけている、あいさつをしている、そのときに返事やあいさつをしないとはどういうことでしょう? 


それは他者の存在を認めていないということです。(自分にはそのつもりはなくても)返事やあいさつができないというのは他者に対して心も身体も開かれていない、意思疎通の窓口が閉じているという状態です。


言い換えれば、これは「あなたとは話すことは何もない!」と言っているのと同じことです。コミュニケーションとはなによりも他者の存在を認めることです。




 

 「はい!」、「いいえ!」、「こんにちは」、「さようなら」・・・しっかりとした返事やあいさつのできる子どもには誰だって話しかけたくなります。そんな子どもは自然とさまざまな年代やさまざまな分野の人と会話し、多くのことばに触れる機会を得ます。文字からだけでなく、耳からたくさんのことばを聴くというのは国語力が育つうえでも非常に大切なことです。


コミュニケーション能力というと、発信力をイメージすることが多いように思いますが、受信力にももっと着目すべきだと私は考えています。





 話しかけても首だけコクン、あいさつしても横向いて小さな声で申し訳程度の声を出す、こんな大人も子どもも少なくありません。コミュニケーション能力を高めたいなら、まずご家庭内の返事とあいさつから始めてはどうでしょうか。


声に出さなくても気持ちの通じ合う家族だからこそ、むしろしっかりと声に出して互いの存在を認め合うことを大切すべきではないでしょうか。


「そうは思うけど、なかなかねぇ・・・」とお思いのお母様方、これができるようになれば学力が育つのだから、塾など通わせなくても済むかもしれません。教育費も節約できるかも・・・? (あ~、こうしてまた私は経営を苦しくしていく・・・・・・)


「ご飯ですよぉ~」と呼びかけても、まともに返事もしないような子どもに(だんなに(笑))、飯など食わすな!! と言いたいところですが、「返事しなさい!」「あいさつしなさい!」はNG! 


こうした命令語は、一方通行のことばですから、そもそも互いの存在を認め合うために返事やあいさつをしようという趣旨にそいません。


こういう命令語をくり返していると子どもは親のことばを聞き流すだけになり、それでは開かれた心や身体を育てるどころか、意思疎通の窓口を閉じた子どもになりかねません。

 

では、どう言えばいいか?というのは、子どもの性格にもよるでしょうし、状況にもより一概には言いにくいのですが、命令語を使わない方法としては、ことばを使わず耳に手をあてて「聞こえないよ」というポーズをとったり、声を出さずに「はい!」と口だけを動かして、返事をすることを促がすというやり方はどうでしょう。


しかし、なによりもまず親がお手本となって実践するのが一番です。夫婦の間や外で人と接するときなどに意識してしっかりとした返事やあいさつをしてみてはどうでしょうか。(すると、なんとあなたの学力もあがる? かどうかは分かりませんが、少なくとも子どもは親の姿を見て学びます)

 




 私は、学力をつけるにはまず学力の土台作りから・・・と考えています。


そして土台というものは毎日の小さな積み重ねによって築かれるものですから、学校や塾よりも家庭が果たす役割がより大きいと考えます。


土台がしっかりしていれば、学校や塾で学んだことを着実に学力に変えていけます。


先を急ぐよりも「いろは」から始めてみませんか。





国語塾いはら教室主宰 井原 幸彦


公式】国語塾いはら教室ウェブサイト


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